「誘惑の手は巧妙に」マタイ6:13

 主の祈りはルカの福音書にもありますが、その教えられた時の背景が違います。イエスが祈っておられたのを見て、弟子が祈りを教えてくださいと願うのです。人は一度では覚えられないし、大切なことは繰り返すものです。おそらくイエスはご自身で祈られた祈りの模範を何度も何度も教えてくださったのでしょう。

 最後は試みです。聖書の中には試みを喜ぶように、たとえばローマ5章には患難は忍耐を、忍耐を品性を、品性は希望をと教えますし、信仰の父アブラハムはひとり子イサクをささげる試みを通りました。試みを経て信仰が強められたのです。主の祈りの言う試みは「悪からお救いください」と対です。悪と罪との試みのことを言っているのです。

 人が受けた最初の試みはエデンのアダムとエバでした。園の中央の木の実は神との契約のしるしでした。ところが、蛇が惑わしたのは実に巧妙、神の言っていることはウソだ。そして、それを食べれば神のようになる。ただ一つの制約もなく、すべてが思いのまま。

 イエス様が受けた荒野の誘惑、それも実に巧妙。みことばをもって誘惑します。3度目のの誘惑は「もしひれ伏して私を拝むなら、すべてを差し上げよう」です。それはエデンの誘惑と同じです。それに打ち勝たれたのが主イエス様。勝利の秘訣は祈りでした。

 一方、私たちに対する試み、誘惑は敷居が低いのです。どうせ罪人、所詮罪人、やっぱり罪を犯す弱い者。そんな声が聞こえてきます。罪は赦されるのならと誘うのです。これは聖さを求める祈りです。直前の赦しと恵みを生きる者にふさわしく、神の恵みにふさわしく聖い歩みに歩めるよう、そして、イエスの勝利の足跡に従うことを祈るのです。何度でも何度でも繰り返し祈りましょう。