「霊と真をもって礼拝する」ローマ12:1-2、ヨハネ4:19-24

 礼拝についてのみことばの中で、最も大切なのはこの箇所とマタイ28章の復活のイエスに出会った弟子たちの礼拝でしょう。そこでの礼拝はただ「ひれ伏す」ことでした。

 「神のあわれみのゆえに」とは、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(8:39)という大きな神の愛を受けた者、あるいはガラテヤ書6章で言われるように主イエス焼き印を帯びた者、そのような者であるがゆえに主の前に従うことが求められているのです。

 供え物としてささげること。それはいけにえです。旧約のいけにえには大きくは5つあり、それぞれ事細かにその方法が定まっていました。ささげるとはそちらの側に置く、つまり神のものとすること。私たちの願いや気持ちではなく、神のみこころにかなったものとすることです。事細かに決められているのは従うことへのチャレンジです。また、聖いとは、私たちの動機を探ります。1コリント13章では「たとい…私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」と教えられます。混じりけのない神への献身が求められているのです。生きたとは、続けることを意味します。

 それこそ霊的な礼拝だとパウロは教えるのです。霊的とは、何か特別の経験とか体験というようなものではなく、神の恵みに応える筋道立った生き方です。私たちのすべては神のもの。安息日だけが神の日なのではなく、6日間働いてという毎日も神にささげる日です。ヨハネの4章、サマリヤの女との礼拝問答、それは古い、形式主義に陥った礼拝ではなく、恵みにこたえる献身こそが礼拝の本質だと教えています。とかく形ばかりになりやすい私たちですが、恵みにおこたえし、心からの献身をささげましょう。

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