「頑なな心の私たち」マルコ16:12-14

 イエス様に出会った二人の弟子たち、これは、よく知られていたエマオへの途上の出来事でしょう。ルカの福音書には詳細が記録されています。彼らはエルサレムへ戻ってイエス様の復活を他の弟子たちに知らせたのですが、「彼らはその話を信じなかった」(13)のです。マグダラのマリヤの証言とともに繰り返されているのは、人知を超えた復活というみわざと信じることができない人の頑なな心です。
 イエス様は弟子たちに十字架とよみがえりを教えていました。それはペテロがピリポ・カイサリアで「あなたはキリストです」という信仰告白をした後からです。そのとき、イエス様をいさめたペテロには「下がれ、サタン」という強烈な叱責をします。忘れることができない記憶にとどまったはずです。その後も何回となくイエス様は教え、弟子たちはその意味について論じ合っています。ところが、復活の証言を聞いたとき、「これがイエス様がお話しになっていたことか!」とは思わなかったのです。
 イエス様が十一人の弟子たちに姿を顕されたとき、不信仰と頑なな心をお責めになりました。その代表はトマスでしょう。イエス様が彼に告げたのは「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」このことばに自らの不信仰を責めたことでしょう。あるいはペテロ。「あなたは私を愛するか。」三度の問いかけに彼は心を痛めました。それにふさわしからざるものであることを重々思い知ったからです。
 十字架と復活の予告に続いてイエス様が語られたのは「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(8:34)ということばです。自らの欲、野心、プライド、そのようなものをすべて捨て、罪の自覚、そしてその十字架を受け、よみがえったイエス様の招きに従おうではありませんか。