あえて選ぶ自由

 この数ヶ月間、すべてがコロナに結びつくような生活を私たちはしてきました。今の状況が普段の生活とあまり変わりない人もいます。大きく変わった人もいます。それぞれの普段の行動範囲によってその変化は様々です。普段、私たちの生活には制限などありませんでした。どこに行こうと、誰と会おうと、何をしようと自由でした。ところが、「私権の制限」という事態に多くの人が初めて直面しました。しかも、世界中が。
 その制限に罰則を設けた国もあれば、日本のように「要請」というかたちをとった国もあります。もっとも「要請」なのか「強制」なのかと言えば、国の要請の圧力よりも強かったのは、世間の目だったというのは皮肉です。普段はそれほど意識していなくても私たちは人目を気にして生きているのです。
 マスクをするのが標準になりました。残念ながら、マスクでは感染を防御できません。自分の飛沫を飛ばさないのが基本的な役割です。もちろん、感染しているのか、自分でも分からない状況ですから、人の集まるところではマスクをするべきでしょう。ところが、人と接しないところであっても、マスクをする人がほとんどです。暑いシーズンになって、熱中症の方が心配です。それは、人目を気にする恐れからでしょうか。あるいは、自分を隠した方が楽だからでしょうか。たかがマスク、されどマスクです。
  すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。1コリント10:23
 これが聖書が教えるキリスト者の自由です。何にもまさって大切なのは、それが周りの人たちの益となるかです。強いられてでもなく、いやいやながらでもなく、キリストに倣って自分を捨てることをあえて選ぶ自由です。自分の行動原理をわきまえたいものです。