いのちのルーツ、私のルーツ-信仰入門(1)

初めに、神が天と地を創造した。
創世記1章1節

娘がたしか小学校一年生のときだったと思います。「お父さんとお母さんはどうして結婚したの?」と訊いたことがあります。その時には、娘の「どうして」の意味を理解するだけの心構えもなかった私は適当なことを言ってごまかしました。後からそれは娘の年齢なりの大切な問いだと気が付いたときには後の祭り、改めて「お父さんとお母さんはね」と話しても、もう聞く耳は閉じてしまっています。それは自分のルーツを確かめる子どもなりの質問だったのです。

若者はみな自分のいのちの意味を探そうともがきます。大人になると、なんとなく自分を納得させるか、日々の中に埋没して、問うことを止め、日々のことに精一杯になって生きています。でもそれでよいのでしょうか。
人はみな自分のルーツを求めています。「どこから来て、どこへ行くのか?」ルーツがわからなければ、いのちの意味をハッキリ知ることはできません。
その昔、春日三球・照代という夫婦漫才コンビがいて、十八番の地下鉄漫才が大人気でした。

「…しかし、地下鉄の車両は一体どうやって入れるんでしょうねぇ。それ考えると夜も眠れないの」
「あなたも面白いこと言うわね」
「あらかじめ電車を地下に埋めておいてトンネル掘りながら『確かこの辺だったよなー』『あったぞ、あったぞ、電車が』なんて」
「そんなわけないじゃないの」
「じゃ、あなた知ってるんですか?」
「当たり前じゃない。地下鉄の階段から運び入れるのよ」
「え、そうなんですか?」
「常識よ」
「そうなんですか。でもどうやって改札口から通すんだろう。それ考えると、また眠れなくなっちゃう」

地下鉄は便利に使っています。行ったり来たり動いている地下鉄のルーツなんて調べなくても、動いていればそれで役に立っています。
しかし、人はそうではありません。「なぜ生きているのか、何のために生きているのか」それを見失うときに人は健全に生きてはいられません。今、東日本大震災を経験した私たちは、「なぜ生きているのか、何のために生きているのか」、それを深く突きつけられています。築いてきた「幸せ」と思っていたものをみな失う経験は、真実を問いかけています。

多くの人が、とにかく「今、生きているのだから、楽しみを見つけなくちゃ」と考えています。生きているうちが華。しかし、そのいのちさえ、どう生きていいのか、生きる意味を失った人は少なくありません。私たちの国では年間3万人を超える人が自ら命を絶ちます。事故死扱いの人を加えれば、10万人とも言われます。いのちの意味と目的はどこにあるのでしょうか。どこにルーツがあるのでしょうか。

ルーツ、それは根。樹はその樹幹と同じだけ根を張ると言われています。立派な樹には、しっかりと大地に張った立派な根があるのです。それは普段見えません。しかし、根があれば、簡単に枯れたりはしません。見えるところがなくなったとしても、再び芽を出し、成長するのです。それくらいにルーツは大切なのです。
聖書は、「はじめに神が天と地を創造した」との宣言から始まります。私たちの住むこの世界のすべては神にルーツがあると聖書は私たちに語りかけます。神は意味なく世界をお造りにはならなかった。目的があって世界を造った。そして、今生きているあなたも私も、意味あってこの世にいのちをいただいているのです。そのことをまず第一に覚えていただきたいのです。

もし、そうでなければ、私たちのいのちは偶然、たまたま生まれてきたに過ぎません。
たまたま、生きているのなら、自分の心の欲するままに好きなことをして、楽しく生きればいいでしょう。人に迷惑をかけようがかまうことはありません。一度限りの人生、思うがままを生きたらいいのです。そして、「やりたいことをやって生きた人は大往生、思い残すこともないでしょ」と周りの人も思って納得させようとします。それでいいのでしょうか。
私たちの心はそれでは納得しません。でも、そうやって生きてはいないでしょうか。本当に悔いなく、感謝をもっていのちを生きる毎日を送っていますか。それともそれを先延ばしにごまかし続ける毎日ですか。
誰しもが喜びをもって、生きがいをもって、満たされた人生を送りたいと思っています。その第一歩は、いのちの造り主なる神を知ることからはじまるのです。