いのちをかけるほどに

 後藤健二さんがイスラム国に殺害されました。世界で最も危険なところ。すでに何人もが人質となって殺害されている。どうして彼はそこへ行かなければならなかったのか。国はたとえ一人のいのちであっても最大限の努力をして国民のいのちを守るべく奔走する。だから渡航自粛の警告をする。しかし、彼はそこへ向かった。どうしてそこまでしなければならなかったのだろうか。

 それは、どこかパウロのエルサレム行きに重なります。行く先々でパウロはそれを止められましたた。ミレトではエペソの長老たちを呼んで思いを語り、涙の別れをします。カイザリヤでは捕らえられる預言までもがありましたがが、人々の制止を振り切ります。

 果たしてパウロはエルサレムで殺されかけます。町中が混乱状態になる騒ぎの中、ローマ軍に助け出されます。訴えられ、裁判にかけられて、長い囚人生活が続きます。カイザリヤでは2年も幽閉され、ローマに送られる途上では難船に遭い、その後も軟禁状態が続きます。それでもしなければならないこと、自分の使命だといのちをかけること。パウロにとっては献金を届け、教会に与えられている交わりの恵みと愛を伝えることでした。後藤さんのそれは、争いと悲惨の事実を知らせ、どうにかこれを止めることをともに考えて欲しいという使命感でした。

 他の誰かでもよかったのではないか。どうしても彼でなければならなかったのかと思うこと。しかし、二人ともそれが自分の使命だと受け止め、いのちをかけたのです。あなたに与えらている使命はどうでしょうか。

 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒20:24)