ことばにできない

 私の友人であり同労者であるT教会のK師が津波の被害のある教会への奉仕に行ってきました。行ってきたら報告をして欲しいとお願いしましたが、一向に報告がありません。わかってはいたのですが、電話を掛けてみると、思った通りでした。
 「ことばにできない」のです。それでも、様子をお話しくださいました。S教会を拠点に、S教会、石巻のを兼牧なさっているI牧師と行動をともになさり、女川などで津波の運んだ泥を掻き出したり、運んだりという作業をされてきたそうです。
 地震の被害にあっただけの仙台市街地は日常に戻りつつあり、―余震でまた一時中断しているそうですが― 一方で、津波の被害の境界線から向こうはこれから先の見通しが全く経たずに、呆然と途方に暮れているという現実の境を彼は見てきました。
 そのことは、実は私たちの普段の人間理解にも深く影響していることです。痛みや苦しみを覚えている人の心に寄り添いたい、耳を傾けたいと願いながらも、経験した者でしかわからない、当事者でなければわからないことが人にはあるのです。そして、その思いの多くは「ことばにできない」のです。安易にことばにすることは、不理解、無理解をさらけ出すような思いを感じたりもする。そんな複雑な気持ちを私たちはもちます。
 それが私たち限りある人間の思いです。それを超えた主に委ねることが私たちの祈りではないでしょうか。
 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。ローマ8:26