それでも生きている

 N兄の召天、いまだ葬儀ができずに、今日連絡があるか、今日連絡があるかと落ち着かない日々過ごしています。そして、心は寂しさ、悲しさ入り混じった思いをぬぐい去ることができませんし、自分はこうやって普通に過ごしていていいんだろうかと考えたりもします。

 私たちは、生きている限り、うれしいこともあれば、悲しいこともあります。楽しみでいっぱいのこともあれば、つらいことで押しつぶされそうなときもあります。ものを食べる気もおこらず、茫然と過ごすようなこともあり、何もする気にならず、ただ時間が過ぎるに身を任せるようなときもあります。とりわけ、地上の別れは切なく、天に迎えられたという確信と希望と平安があるのですが、一方で、それを腑に落ちて受け止めるまでには時間がかかるように思います。いえいえ、自分が天に召される日まで抱え続けるのかもしれません。

 それでも、今、私たちはここに生きています。食べ、働き、休んで、寝ます。日常の当たり前とも思えるその一つ一つは生きることに大切な一つ一つです。たとえ、思いの上では様々な整理つかない思いを抱えていたとしてもです。そして、その日常の繰り返しの中にこそ、この地上を生きる大切な意味があるのではないでしょうか。

 地上のいのちの日は決していつまでも続くものではありません。いつか、神様にお返ししなければならないときがやってきます。それが今日なのか、明日なのか、1年先なのか10年先なのか、50年先なのか。「たとえ、今日世界が終わったとしても、私はりんごの木を植える」と言ったのはルターですが、今日というこの日、生かされてあるいのち、それは日常の小さなことを喜びもって生きることを大切にしたいと思うのです。