つまづきの事態

 前回、「アディアフォラ」という言葉を紹介しました。私たちの行動を考える上で大切な概念であることを学びました。しかしながら、二つの点において、アディアフォラはない。その一つが信仰告白の事態。もう一つがつまづきの事態です。私たちの行動、それがつまづきとなっていることがないだろうかと問われます。

 私たちの言動、ことばで失敗しない人など誰もいません。「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です…」(ヤコブ3:2)とあるように、心にあることが「つい」口から出てしまうのです。

 また、自分では「よい」と思ってしていることが、他の人には「つまづき」となることがあります。初代教会の時代、ユダヤ人と異邦人の生活習慣は大きく異なっていました。ユダヤ人にはそれは汚れた習慣と映ることが多くありました。食習慣の違いなど、それは一緒に食事ができない。交わりができないというようなことが多々あったのです。「そんなの関係ない!」と言われても、そうは受け取れない、良心の咎めを感じたり、責められたりすることがあったのです。そして、それは今の私たちにも同じです。

 それをやったら、それを言ったら傷つく人がいる。ならば、あえて自分はそうは思わなくても「しない」という選択、そこに問われていることは配慮であり、愛です。それが行動の底辺にあるでしょうか。どこか、私たちは自分優先、自分ファーストです。そこから他者優先、他者ファーストにシフトするように招かれているのです。

「私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。」(ローマ15:2-3)

 そのキリストの心を生きましょう!