イエスのみわざ(1)〜この世の矛盾と罪を背負って〜信仰入門XIV

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34

 イエスのみわざの中心は十字架です。なぜイエスは十字架に架かられたのでしょう。ひとことで言うならば、「私たちの罪のため」です。私たち人間は罪の中に生まれ、罪の連鎖に翻弄され、罪の中に死んでいきます。この罪の赦し、罪の解決こそが、人間にとって本当の救いなのです。

 さて、イエスの生涯の最期、逮捕から十字架に至るまでの間、人間の罪や矛盾が次から次へと矢継ぎ早にでてきます。

 イエスは新しい教えを権威をもって人々に語られました。ユダヤ人の指導者たち、律法学者や民の長老、祭司たちはこれを受け入れませんでした。人は自分の生き方や在り方を批判されたり、拒絶されることに猛烈に抵抗するものです。

 エルサレムの宮で商売人を追い出し「宮きよめ」を行うと、彼らはイエスをいつ殺そうかといよいよ狙い始めます。考えてみてください。鎌倉の大仏の前や東大寺の境内で、おみくじや絵馬を売っている台をひっくり返し、「祈りの家だ。出て行け!」と言うようなものです。民衆はみなイエスの教えに熱心に耳を傾け、もはや誰もイエスを止めることなどできなくなっていました。もはや、イエスを殺し、葬り去るしかないと彼らは考えたのです。

 正しいことが正しいと通らない。みんな分かっていることであっても不正を正せない。ことが真実であるかどうかということよりも伝統や慣習、人の力関係や立場、お金や効率、そのようなものによってことが決まっていく。弱い者、小さな者は顧みられず、時に無視され、虐げられ、搾取されます。愛を語ることがあっても、実際にはそれとかけはなれた現実がそこにある。そんな矛盾に満ちた世界が私たちの世界です。

 こんなたとえをイエスは話されました。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18:11-13)イエスは取税人の祈りが受け入れられたと言います。そう、逃れられない罪を認めることが大切なのですが、それすらわからない人の高慢さを教えられたのです。

 イエスは『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ9:13)と言われました。

 そのイエスご自身がその悩みを受けられます。イエスが捕らえられたとき、大祭司や長老に差し向けられた群衆は剣や棒を手にしていました。たかが一人に一隊の兵士と千人隊長、役人たちが差し向けられました。そしてユダの親愛の口づけが合図でした。なんという裏切りでしょうか。

 時を移さず、大祭司カヤパのところへ連れて行かれます。カヤパの舅であるアンナスがでてきます。彼はユダヤ指導者の大御所。そんな人です。

 そこで訴える口実を見つけるための審問が行われました。罪状があって捕らえられたのではありません。なんとしても葬り去るための審問です。彼らは夜を徹して審問を行います。本来ならば、時をおいて裁判を行い、複数の証人が立てられて、慎重に行われるべき手続きの一切が無視されます。そして、罪状書きも定まらぬまま、総督ピラトのもとに送られます。ローマに支配されていたユダヤは、自分たちで正式な裁判を行うことができなかったからです。

 そのピラトは、ユダヤ人がねたみからイエスを引き渡したことが分かっていながら、腹を据えかねます。過越の祭りには恩赦を行い、ユダヤ人のご機嫌取りをする習慣でした。そこにイエスと名の知れた犯罪人バラバのどちらを赦免して欲しいかと問いかけるのです。

 バラバは都に起こった暴動と人殺しのかどでつながれていた人です。いわば、目的のためには手段を選ばず何でもする人の代表。かたやイエスは右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさいと徹底して愛に生きることを教えた人。ところが民衆はバラバを選ぶのです。ピラトは自らの保身のためにイエスを死刑に引き渡します。ローマの役人である彼はユダヤ人が騒ぎを起こすと自分のクビが飛ぶからです。

 逮捕から裁判、その一連の出来事はまさに人の世の罪の矛盾を凝縮するような出来事でした。そして、その一切をただのひと言も答えることなく、イエスは黙々と従われるのです。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」これはイエスが十字架上で祈られた祈りです。そう、人は自分で自分のことがわかりません。その罪の矛盾すべてを背負ってイエスは十字架に死んでくださったのです。