イエスの教え(1)~幸いな人への第一歩~信仰入門XII

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」マタイ5:3

 イエスの数々の「しるし」によって、人々はイエスこそが救いを与えるお方だと期待して集まってきました。その数、給食の奇蹟をなさったときには男だけで五千人という数です。イエスの教えは「神の国の福音」です。「しるし」はその一部をかいま見るものでしたが、その教えを生きるなら、誰でも神の国の幸いを喜ぶことができるのです。イエスの教えはたくさんありますが、新約聖書の中で最もまとまっているのは、山上の説教と呼ばれるガリラヤ湖畔の山の上で語られた教えです。

 イエスは「心の貧しい人は幸い」だと教えられました。世の中のものの考え方と全く正反対です。私たちの住む世の中では、心を強く、そしてどのようにしたら成功した人生を生きられるのかと考えます。

 私は小学校2年生のときの先生を忘れることができません。その先生は「ケツバット」を持っていました。今の時代では受け入れられないことでしょうが、忘れ物をする、悪いことをする、約束を守らない、そうすると、先生は前へ呼んで、お尻を「ケツバット」で叩くのです。もっとも、子どもであった私たちは喜んで叩かれたのですが…。先生の口癖は「能力の差は小なり、努力の差は大なり」でした。それを「ケツバット」で叩き込んだのです。

 書店に行けば、ビジネス書のコーナーは、どのようにして人脈を築き、仕事をマネジメントし、効率よく作業をして成功するのかという本で溢れています。人生の成功者のことばや手法がもてはやされます。そしてくじけない、あきらめない心や、努力、頑張るなどということばが踊ります。

 一方で、それについていけない人たちは大勢います。現代社会は病んだ社会です。効率が求められ、できる人にことは集中し、ついて行けない人は蹴落とされます。企業は即戦力のみを求め、人を育て、見守る余裕がありません。格差社会と言われます。その格差社会で生きるために、子どもたちは勉強を強いられ、競争を強いられます。

 それは国の中にとどまりません。グローバルと言われる世界規模で、強い者が生き残り、努力するものが成功する。意識するとしないとに関わらず、私たちはその流れの中にあるのです。

 それではイエスの教えは何を問いかけているのでしょうか。人は自分で自分をコントロールして強く生きることなどできないと認めるようにという促しです。ときにくじけ、立つこともできないような者であり、また、愛に貧しく、心の狭いものに過ぎないことを知ることです。自分の力で生きられると思っているうちは、神の助けはいりません。そうでないことをへりくだって認める者とともに神は生きて下さるのです。これが信仰の第一の出発点です。

 ところが、この第一歩を認めることを人は拒むのです。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタ7:13,14)とイエスは言われました。また、「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(マタイ19:24)とも言われました。

 どこかで私たちは神に向かって裸になることができません。残念ながら成功しているときにはどこかで「自分でできる」というおごりがつきまとうからです。貧しい者であることを知る。それは失う経験、はぎ取られる経験、失敗をし、自分の手ではもうこれ以上何もできないようなところを通らなければならないのです。徹底して貧しい、自分では立つことのできない罪人であることを知るときにだけ、神の恵みを知る幸いをいただくことができるのです。

 それを受け入れることができるならば、続く教えを受け入れることは難しくありません。

 「悲しむ者」とは、自分の罪の姿を悲しむ人のことです。自分ではどうにもできない罪を認めるときに、神が救いの慰めを与えてくださるのです。

 「柔和な者」とは、穏やかな、広い心で何でも受け止めるようなイメージがあります。しかし、柔和というのは、荒ぶる獣が静められるという意味をもったことばです。心貧しい、悲しむべき罪人であることを真に認めるならば、人に向かって心荒ぶるようなときに、赦す心に導かれるという約束です。自らを振り返って「ごめんなさい」と謝ることができるという約束です。だから、地を受け継ぎ、周りと仲良く生きられるのです。

 さらに、そのままでいいなどとは思いません。義に飢え渇き、さらに積極的にあわれみ深い人へと導かれます。このような人が「心のきよい人」です。さらに平和をつくり、たとえ迫害をも耐え忍んで、天に望みを持つ者となるのです。

 一足飛びに幸いな人にはなれません。しかし、神の助けなくして生きられない貧しい者であることを認め、神の助けを求めるはじめの一歩を踏み出すならば、イエスが主となって幸いな人生はあなたにも与えられるのです。