イエスの涙と嘆き

 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。

ルカ19:41

 イエス様が涙を流したことが福音書の中に数度、記録されています。そのうちの一つがこの箇所です。そして、この後、イエスはエルサレム入られて「宮きよめ」をします。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」と宮で商売する者たちを追い出すのです。

 本来、どうあるべきものがそうではない。それは大きな悲しみであり、嘆きであり、涙です。私たちの周りにもそのようなことは少なくありません。こんなはずじゃなかった。誰がこんなにしてしまったのか。誰が悪いのか。どこから間違ってしまったのか。

 「人の子は、失われている者を救うために来たのです」と言われたように、何よりも、神が造られた尊いいのち、尊い人が失われている。それがイエスの涙のわけです。そのためにイエス様がこれから向かう先は十字架です。ゲッセマネで悲しみに苦しみもだえながら祈りの戦いをします。十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫び、命を捨てられます。

 私たちすることは、誰かを責め、文句を言い、不満をぶつけるばかりです。一方、イエス様の涙と嘆き、その先にあるのは受難でであり自ら命を捨てる愛です。そして、その先にあるのはよみがえりの希望です。嘆きと涙のあるところ、イエス様がしてくださった恵みに思いを向け、自分は何をもってお応えできるか。受難週のこの週、深くそれを心に刻む週にしましょう。