オリンピックの憂いとバベル

 オリンピックが始まりました。次々と行われる競技を複雑な思いで見ています。このために若いいのちの時間をかけてきた。心と体と技とすべてのものが整ってこそ表せるものは純粋に素晴らしい!体操も素晴らしかった!サーフィンやスケートボードという新種目、いままでどちらかと言えば、マイナーなマニアックなスポーツにも陽が当たりました。
 一方で、コロナの感染大拡大。これまでで最も大きな波。こんなにも何度も波を繰り返している国は日本くらいです。そして、今、打つ術がありません。コロナ慣れ、自分の知り合いに罹った人はいないし、一日千人だって言っても、東京の人の数を考えれば、自分は大丈夫、若ければ罹っても軽症だし。そんなものが覆っています。東京都で言えば、累計感染者は約21万人、死者は約2.2千人です。ますます拡がる中、これでいいのかという意見は少なくありません。また、東南アジアの今の状況を見ると、オリンピックどころの話ではありません。それでも止められない。
 そして、この暑さ!アスリート・ファーストではありません。利権第一です。すでに倒れる選手が出てきています。マラソンなどはそもそも冬のスポーツ。札幌に移しても異例の猛暑、台風もかすめました。どこかズレてはいないでしょうか。
 50年前は、飛行機で旅するのはまだ一般的ではありませんでした。それが急速に行き交うようになりました。「名を上げよう。散らされるといけないから」と人々はバベルの塔を作り始めました。一方、神はそれを留め、世界に民を散らされました。それは、権力と富が集中するとき、虐げられる者、置き去りにされる者が出るからです。神のせめてものご配慮でした。それが再び、力を握るバベルを建てようとしている。武力という力ではないかもしれない。でも、圧倒的なマネーです。そこに踊らされる矛盾を抱えるのは、この世で生きる者の悩みなのでしょうか。