ハロウィンとお盆と死生観

 ハロウィンのお祭りが近年と言ってもここ10年位でしょうか、あちこちで仮装のお祭りとして見聞きするようになりました。今年はとりわけ韓国のソウルで150人を超える人たちが圧死するという痛ましい事故が起こりました。お祭りというものは、もともとの意味よりも祭りのもっている高揚感や人が集まる盛り上がりや楽しみに主役を奪われ意味は問われなくなる傾向があります。
 ハロウィンは古代ケルト人のサウィン祭が起源といわれています。古代ケルト暦では、11月1日が新年とされ、大晦日にあたる10月31日の夜に先祖の霊が戻ってくると信じられていました。それと一緒に悪霊がやってくるので、それを追い払うために仮面をかぶったり、魔除けの火を炊いたりする風習が行われます。先祖の霊が戻ってくるというのはお盆の風習と同じです。それを丁重に迎え、送り出すことをしないと先祖が浮かばれず、祟りがあるというのも似ています。
 世界中、世界といのちの造り主である真の神なきところで死生観は曖昧です。一方、聖書の教えからすれば、死した者の霊魂は神の御手にあるものであり、いくら悔やんでも、寂しくても最終的には神の御手に委ねなければならないものです。いやむしろ神の御手に委ねる平安があるのです。ですから、世の騒ぎを見て、私たちは自分たちのいただいている救いを確かにすることが問われます。
 そして、むしろ今生かされていのちいただいている者がどう生きるのかが問われることです。それでは、あなたはどう生きるのか。痛ましい事故を見て問われるのは、いつ私のいのちが不慮の出来事で取り去られるかもしれない。明日のいのちは自分でコントロールできるものではないということでしょう。誰しもあんな事故が起こるなんて思いもしませんでした。そして、戻ることもできません。心中穏やかならざるとき、自らのいのちをもう一度問いかける時としましょう。