乗り物と自由のはなし

 遡ること30数年前、神学生だった私に奉仕先のリーズナー宣教師が私に聞きました。「松村さん、クルマは好きですか?」
好きとか嫌いとか、そんなものは超えて、すべて献げたつもりであった私は苦し紛れに「きらいではありません」と答えました。リーズナー先生は「それは、好きということですね」と核心を突いて仰いました。そしてそれに加えて、「男というものは、乗り物と機械が好きなものなのです」と言うのです。はい、恐れ入りました。
 考えてみると、乗り物は自由の象徴です。記憶にあるのは補助輪付きの自転車から私の乗り物ライフは始まりました。5針縫う怪我をして補助輪を外されて乗れない時を過ごしたときはとっても窮屈でした。姉のお下がりの自転車ばかりだった私が始めてスポーツ自転車を買ってもらった時は嬉しかった!行動範囲がぐっと拡がりました。高校生になると原付バイク。どこにでも行けるようになりました。それが中型バイクになれば、高速にも乗れる。そして、クルマになると雨でも雪でも季節も関係ないのです。なんという自由!
 高齢者のクルマ問題も同じです。生活に不便というだけではありません。自由をなくしてしまうことへの抵抗です。それはとりわけ男性の方が大きいことでしょう。最終的には乗るか乗らないかの問題よりも、自由を失うこと、自分はまだやれるという自信というか自分を立たせる思いを手放さなければならないことへの内なる抵抗なのでしょう。
 「行動において自由」ということが人のいのちにとって大切です。自分の思うときに、どこにでも行ける。どこか窮屈で縛られたような思い、不自由を感じさせるような思いは人を卑屈にさせます。いつも誰かに頼まないと動けないような気を遣うこともまた元気を失います。神のかたちに造られた私たちが健やかでいるための自由!これを大切にしたいものです。