会話、対話、討論

 私たちは会話し、対話し、討論をします。劇作家の平田オリザさんが朝日新聞で日本人の言葉の使い方について興味深いことを言っていました。私たちの日本人としてのものの考え方、コミュニケーションについての理解を深めるに適切な表現だと思ったのです。

 「日本語は、閉じた集団の中であいまいに合意を形成するのにはとても優れた言葉です。日本文化の一部ですから、悪い点ばかりではない。近代化以前の日本は、極端に人口流動性の低い社会でした。狭く閉じたムラ社会では、知り合い同士でいかにうまくやっていくかだけを考えればいいから、同化を促す『会話』のための言葉が発達し、違いを見つけてすり合わせる『対話』の言葉は生まれませんでした。

 言葉というのは要求がなければつくられません。例えば演説や裁判のための日本語は、明治に入り、近代国家として必要になったので人為的につくられました。しかし対話のための日本語はいまだにつくられていない。富国強兵、戦後復興、所得倍増と大きな国家目標があって、それに向かって努力していればきっと幸せになれると多くの人が信じているような社会では、多様な価値観は育まれにくい。みんなが一丸となって目標に突き進めばよかったので、対話は必要なかったのです。

 対話とディベート(討論)はどこが違うか。ディベートは、自分の価値観と論理によって相手を説得し、勝つことが最終目標になる。負けた方は全面的に変わらないといけない、勝った方は変わる必要がありません。しかし対話は、勝ち負けではありません。価値観をすり合わせることによってお互いが変わり、新しい第三の価値観とでも呼ぶべきものをつくりあげることが目標になります。」

 私たちは神のみことばを通しての対話、祈りを通して新しい人にさせていただきたい。