偏見を超える暖かさを

 『ラビング 愛という名前のふたり』という映画を見ました。複数の州で異人種間の結婚が禁じられていた時代のアメリカが舞台です。リチャードとミルドレッドは、それが許されていないバージニア州から隣のワシントンD.C.に行って結婚します。バージニアに戻ると、突然現れた保安官に逮捕され、保釈金を払って釈放されますが、バージニアには戻らないことを条件とされ、ワシントンD.C.で暮らし始めます。

 それでも故郷を捨てられない二人、ミルドレッドは合衆国司法長官に手紙を書きます。当てがあったわけではない手紙でしたが、聞き届けられ、アメリカ自由人権協会が費用を負担し、公民権を専門に扱う弁護士が訴訟を起こします。途上、判事がこう判決を宣べるのです。「神は白人、黒人、異人種が混じることを望んではおられない。」著名雑誌のライフ誌は「結婚という犯罪」という記事を二人の写真入りで掲載します。

 裁判は合衆国最高裁にまで持ち込まれ、最終的に、「すべての異人種間結婚禁止法を違憲であり、修正第14条の平等の保証に違反している」とする、全員一致の判決を下しました。それが1967年6月12日のことです。それはごく最近の出来事、わずか50年前のことです。聖書の教えは名ばかり、形ばかりでしかなかったということです。そして、神の名を持ちだして正当化する欺瞞が行われます。

 私たちがごく当たり前のように考えていること、知らず知らずにしていることの中に、様々な偏見や誤解が少なくないことを覚えさせられます。何がそうさせるのか。それは、私たちの罪ある心です。考えてもいない、けれどそれが人を傷つけていること、傷つけられていることが私たちの周りには数限りなくあります。言われてみて初めて分かることがあります。その前に気づくほど賢くはありません。私たちの交わりが色メガネなく受け止められる暖かさをもちたいものです。