公同の教会、主の教会、私の教会

 私たちは普段、「教会」を意識するときには「自分の教会」を無意識のうちに結び着けて考えています。一方で、聖書に出てくる教会とは、「キリストをかしらとするからだ」として語られています。そこには、まだ見たことのない人たち、自分とは別の群れ、世界中に散らばる無数のキリスト者がともにキリストによって救われ集められた、場所も時代も超えた「見えない教会」です。これを公同の教会と言います。

 そこには、地上の国の違い、民族の違い、文化の違い、男女の違い、身分の違い、すべての違いを超えて、ただ主にあって一つという交わりです。罪のゆえに分断していたその壁は取り去られて、今や私たちはそのような教会の一員に加えられ、そこには、主にあって乗り越えられないことなどない祝福です。

 一方で実際の私たちが生きる場は限られています。ともに交わりをすることのできる人の数も限られています。それぞれが、日常を共にする教会を地域教会と呼びます。先の理解がないと、それは「私の教会」となりやすいのが罪深い私たちの傾向です。そして、その交わりは自分の都合、自分の喜びしか考えなくなってしまうのです。

 神のみこころはもっと広く、もっと大きくすべての神の民が一つになることを願っておられます。とは言っても、それを実際に体験しなければ私たちにはわかりません。講壇交換はその一つです。教会連合の交わりもその一つです。公同の教会、それは絵に描いた餅のように理想の姿ではありません。神が私たちに与えてくださった恵みです。世は「私」にだけ傾きます。私利、私欲、自己中心、自己正当、自己保身…。一方、私たちは公同の教会の主であられる神に仕え、交わりのために奉仕し、献げ、喜び悲しみをともにし、神の恵みをともに感謝したいと思います。