内なる差別の心

 米ミネソタ州ミネアポリス市で先月、黒人のジョージ・フロイドさんが白人警官に暴行され死亡した事件が波紋を広げています。その後、全米であるいは世界中へ抗議デモが拡がり、あるいは暴動や略奪などということが拡がっています。
 聖書の中では、男女の差別、ユダヤ人・異邦人の区別、主人と奴隷の差別が明確な社会にあって、パウロは教えました。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」(ガラテヤ3:28)。そして、上下関係が明確になるような男女、父子、主人と奴隷に対して、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(エペソ5:21)という人間関係の基本的原則を教えた後、妻たちよ、夫たちよ、子どもたちよ、父たちよ、しもべたちよ、主人たちよと個別にどのような心構えと実際をするべきかを教えました。
 「それでも世は明ける」という映画があります。自由黒人ソロモン・ノーサップが南部の農園に不当に売られた12年間の壮絶な奴隷生活をつづった伝記です。その中に主人が聖書をして奴隷たちを諭すシーンが出てきます。「奴隷たちよ主人に従いなさい・・・」そこには、「互いに」というエペソ書の語る原則が抜けて、都合良く聖書が利用されます。福音の持ついのちと関係の回復という救いが理解されていないのです。
 私は、自分の内側に「内なる差別の心」とでもいうものが住み着いていることを否定できません。妻に対して、女性に対して、学歴や立場、人種や国籍…。頭ではよく分かっているつもりです。ところが心と行動とが伴わないのです。そして、知らず知らずのうちに傷つける言動をしていることでしょう。どのようにしてその縄目から抜け出ることができるでしょうか。内から外へ、耳を傾けることから始まるのではないでしょうか。