原発事故3年

 「ふるさとが恋しいって言うのは、年をとらなければわからねぇんだよ。」原発事故から避難生活を続けている福島県飯舘村の住人のことばです。若い世代は新しい場所で生活せざるを得ません。子どもたちを育て、糧を得なければ暮らしていけないからです。やむにやまれぬ事情があります。でも、その時が来て、草をかき分けなければ玄関に立てないようだったらと草刈りに励む老人の姿を見ました。

 「この家は私のために建てたようなもんだから」と言う女性のご主人、「俺たちが結婚する前の年に建てたんだからなぁ。でも息子たちはここには住まねぇって。」一週間に一度イヌに餌をやりに帰っている。「ここで野菜作って食べて、食べきれなければ子どもたちに送ってやって。」そんなささやかな喜びは避難先のアパートではなす術もない。

 仮暮らしも3年を過ぎれば、仮のままでいることはできなくなってきます。これから先どうしていくのか、落ち着きどころを見つけなければならない現実がそこにはあります。

 当たり前の暮らしをある日を境にすべてを失ってしまった。その立場になってみなければわからない。それが人の限りです。でも、その声を聞くならば、どうにかできないだろうかと思うのです。

 3年経っても収束にはほど遠い対症療法のような作業が延々と続けられ、その作業すら被爆が避けられない決死の作業です。根本治療はなんだろうかと考えるならば、後片付けができないものをばらまいてしまったという反省ではないでしょうか。3年経つ今、事故直後の決死の作業、東日本全体がどうにかなるのではないかという緊張感はなくなりました。でも決してそうではない。せめてここで祈り続ける者でありたいと願うのです。未来を生きる者たちのために。