嘆きに嘆かなければ

 早天祈祷会では、イザヤ、エレミヤ、哀歌と読み進んできました。不信仰によって国が攻められ、包囲され、滅亡していくその過程が赤裸々に綴られています。その中では、頼りにするべきものが何なのかを問われます。
 北のバビロン、時代と治世が変わってアッシリヤに攻められ続ける中、南の大国エジプトを頼って助けを求めたり、指導者たちは見せかけの偽預言者たちのことばで国民を欺いたりします。エレミヤが勇気を振り絞って預言したことばは神のことばとは受け取らず、むしろ国賊だと捕らえ、聞き従いません。結果、起こるできごとは、破綻明らかな国が延命に延命を重ねて国が滅んでいく姿です。さながら今の日本の姿、教会の姿と大きく重なり合うことを覚えながら読んで来ました。真実の姿にありのままに向き合って認めることができないのです。
 哀歌は徹底的に嘆きの歌です。国が滅ぼされた悲しみ、今の窮状を嘆くのです。国がこんなになってしまった訳がどこにあるのか。それを問いながら嘆き、自分の罪を嘆き、罪を悔い改めるのです。私たちはどこか、人の努力でなんとか変えられる、切り拓いていけるという思いを捨てきることができません。どうにもならないことをどうにかできると向き合うことを恐れます。しかし、私たちに必要なのは、徹底的に無力であることを真実に受け止めることではないでしょうか。
「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。」(哀歌5:20-21)
 生ける神にさえ捨てられたように感じながら、でも事を動かすことができるのは神しかいない。あわれみ賜え。それを謙遜に祈っていきましょう。