天国に近い病室

 先々週、H教会のM牧師からB兄が危ないとの電話がありました。もしもの時には知らせて欲しいと言っていたのです。血栓から足先にあざができ、それが足全体に広がって壊死が進み、足の切断をしなければならないかもしれないということでした。一週間でぐっと回復し、委員会の帰り道、見舞いに立ち寄りました。
 B兄は戦前生まれ。戦火をくぐり抜けて外地から復員後、長く山梨県の土木畑の中心で働きました。梨大土木の卒業生ですから、私も同窓会に行けばお会いしました。娘のY姉に導かれて信仰を持ったのは64才の時。その後、息子と娘を頼って八王子に越して17年になります。私も8年間、教会生活をともにしました。
 老いを受け入れ、穏やかに暮らすのは簡単なことではありません。若い頃は自分でできたことができなくなります。人にことを頼むこと、してもらうこと、受けることが多くなると心は卑屈になりやすいのです。やがて、してくれない、してくれても期待どおりではない、その小さな不満が雪だるまのように大きくなって、ときにどうしようもない気持ちになったりもします。それをぶつけても解決するばかりか溝をつくったりもします。「私たちの負いめをお赦しください」という祈りはできても、「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」とは祈れないんだと言っておりました。
 危機を脱して、「みんな良くしてくださった。委ねるって難しいねぇ。でもイエス様も十字架ですべてを委ねて身代わりになってくださった。ぼくにはわからないこともあるけれど、委ねる」と穏やかにおっしゃる。それを息子さん夫婦がにこやかに見守る。 病室というのは、苦闘もあるけれども天国に近いところだと心からの感謝をともにささげた。