小さな畑で祈り考える

 今年、小さな畑を借りました。お隣さんに誘われたのです。O兄に「どうしたら、いい畑になるかなぁ」と訊くと、「よく耕すことさよぉ」と言われました。よい土、適切な肥料、雨と日光はお天気次第。そしてそれをカバーする経験と知恵。

 この辺りはその昔、田んぼだったところ。どこへ行っても粘土質で畑にするにはいい土質ではありません。ですから耕すと言っても容易なことではありません。雨が続けばぬかるんで、沼地のようになります。小さいとはいえ教会の庭くらいでしょうか。そこそこの広さ。幸い耕耘機も貸していただいたので、生まれて初めて耕耘機をかけました。ところが、その耕耘機が入っていかないのです。やむを得ず、スコップで土を起こしてから耕耘機をかけるという始末。「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)とはこのことでしょうか。

 聖書の約束は「あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。」(申命記7:13)唯一求められていることは、主にお従いすることです。

 主の祝福をいただくとはどういうことなのだろうかと考えます。国や場所によっては干ばつや砂漠化、紛争によって土地を追われる場所があります。そのため飢餓と争いの悪循環から抜け出せない国があります。グローバル経済の中で化学肥料と農薬漬けで輸出用の作物を作って土地がやせてしまったところがあります。何でも買えば済んでしまうような中にあって、せめて食べ物を得る苦労と喜びをささやかながら実感できたなら、祈りの世界も拡がるのではないかと思っています。