平和を祈る

 この夏で平成が終わります。30年前の昭和の終わりは、戦争と戦後の復興から高度経済成長という時代の一つの区切りであったように思います。平成の30年、バブルの崩壊とともに勢いのあったこの国は高齢化に向かい、産業の空洞化、かつて飛ぶ鳥を落とす優良企業が力を失い、世界の工場はアジアに移りました。それとともに一億総中流と呼ばれる安定したところから、格差社会と呼ばれるようになりました。

 国際情勢も大きく様変わりしました。ベルリンの壁崩壊が1989年、東西冷戦が終結した後は2001年の9.11、テロの時代からアフガン戦争、イラク戦争。2013年からISが台頭し、今年になって、北朝鮮が米国と会談をしました。国際協調よりも自国優先主義に傾く時代変化とともに、これからこの世界とこの国はどこに向かうんだろうと思います。聖書と世界の長い歴史は国々の台頭と衰え、それを繰り返していることを教えています。

 今、戦争経験者はほぼいなくなりました。傷ましい経験からノーを叫ぶ人が絶える時、悲しいかな同じ過ち、同じ轍を踏んでしまうのが愚かな人の姿です。歴史に学ぶことができないのはなぜでしょうか。いくら平和を声高に叫んでも、人の罪が争いへと駆り立てるのです。旧約聖書の預言者たち、彼らの叫びもかき消され、周りへの祝福の器であるはずのイスラエルも巻き込まれていきます。

 主イエスの救いをいただいた私たちが祈りまた願うべきこと、それは、自らが生きる場で平和をつくる者となるべく自らを献げること、アブラハムがソドムのためにとりなしたように、とりなしの器として周りのために祈るべきこと。国のため、世界のため、そのリーダーたちのために。この時代にあって、わずかな者に過ぎないけれども、神には力があり、世界を治めておられる。そのお方の御前に祈ることこそが力であることを覚えて、とりなす者となろうではありませんか。