弱さにこそ現れるやさしさ

 N兄が突然天に召されて、そのショックは大きく、受け入れがたい悲しみと寂しさに覆われていました。時間の経過とともに、兄弟姉妹と分かち合うことを通して、それも少しづつ受け入れられるような思いになってきました。それでも、葬儀をしないと落ち着かず、改めて私たちにとって葬るということの大切さを覚えます。

 なぜか、ハンドベルをやってみたいという兄を姉妹方はよく受け入れて下さったと思います。楽譜も読めないというは致命的とまでは言わなくても、かなり大きなハードルです。符割をして、自分の打つべき音符を正確に把握して、周りの奏でるものと合わせるのですから、ただでさえ難しいのです。

 ハンドベルクワイヤの姉妹方は口々に「彼がハードルを下げた」と言います。私たちが何かをする世界では、常に「できる」ことを求めます。たとえて言うならば、パリッと糊のきいた汚れのない白いシーツかシャツ。一点でも染みがついていたならば気になって気になって換えたくなるように私たちは人に要求します。そこにシミ、あそこに汚れ、目を凝らして見なければならないようなものにまで、そう言い合うと見た目はきれいでもギスギスした世界になってしまいます。

 ところが、それは洗いざらしのジーパン。多少シミがあろうと、多少ひっかき傷があろうといいじゃないか。うまく行かないことがあっても、それを忍耐もって受け入れ、一緒に歩むこと。そこにこそ、私たちには赦し、やさしさ、期待、希望、恵み、感謝といった目には見えないけれど、宝のようなものをいただいてきました。神が与えてくださった特別のプレゼントだったなぁと思うのです。

「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」1コリント12:22