救いの分かれ目

 突然の噴火、そこには逃げる猶予もないまさに降って湧いた出来事、一瞬にして見る間にわき起こり迫る噴煙。犠牲者たちは雨のように降る噴石に打たれ、倒れ、噴煙に埋もれてしまいました。間一髪助かった人たちも、目の前で倒れる人たちをどうすることもできなかった無念さと、どうにかしてあげることができなかったのかという自責の思いから逃れることはできないことでしょう。

 東日本大震災のときもそうでした。わずか数メートルの差が明暗を分けました。津波から逃げられなかった人は、まさかここまでとう想定外であったり、体を動かすことが困難な高齢者や病者でした。しかし、今回は違います。逃げられるとか逃げられないとか、そういうレベルではなく、どこにいたかです。逃げ場のない山の上、頂上付近は4メートル四方にこぶし大から頭大の噴石が平均10個も降ってきたといいます。どうやったって逃れようがありません。

 それは俗に言う運がよかったとかわるかったとか、あるいは偶然ということなのでしょうか。どうして私は助かったのか、残されたのか。神様が守って下さったなら、どうして私は助かり、あの人は助からなかったのか。それはどう考えても決してわからないことでしょう。

 はっきりわかることは、救い出された命ならば大切にしなければならないという思いではないでしょうか。死んでいてもおかしくなかったのに生きている。私たちのいのちもそうです。生まれたこと自体、自分で選んでいません。いのち与えられて生きています。危機を考えれば、自分は安全などということはない。守られているからこそ生きている。それがどうして私なのか、わかることはただ恵みによって生かされているということ。日々それをかみしめて生きたいものです。