救われることはただあわれみ

 宮城聖書教会の田中時雄師のお話しを直接伺う機会がありました。教会は東松島市。Aさんが救出されたところから約800m。ほぼ同じ経験をなさったようです。黒い壁が押し迫り、必死で逃げ上がったところで助かる見込みはなく、周囲がみな流されていく恐怖の経験。取り残されて3日。30年間、苦労に苦労を重ねてきたものがもろくも押し流されて、茫然自失、座り込むことしかできなかったむなしさ。救出先の避難所の現実は極限に置かれた人の醜さそのものです。食べるものは一日におにぎり一個かバナナ1本。全員に行き渡るかギラギラとした視線がその場を覆う。炊き出しの盛りを巡っての怒鳴り合い。避難所内での場所を巡っての力関係。水の止まった水洗トイレの悲惨。牧師さんなら一緒に行ってくれますねと何回も足を運んだ遺体の確認作業での臭気と生々しさ。列をなして並ぶ遺体に人のいのちとは一体何なんだといままでの日常の営みとは全く違う世界に放り込まれてしまったことに適応できない心とからだ。そこにいなければ決してわからないことでしょう。
 「救われる」ということは、自分ではなすすべがないところを、ただあわれみによって「助け出される」ということなのだということははっきりした経験だったというのです。一度引かない水の中、といってもまだ雪も降る冬、胸まで泥水に浸かりながら夫婦で脱出を試みたそうです。「お母さん、唇がどす黒いぞ。」「お父さんも」と引き返し、生存者を捜す72時間を過ぎ、遺体の捜索に来た自衛隊にボートで助け出されました。途上、辺りの流されて破壊された町の様子を見、車の中で溺死している人を見、残され救われたのは、人の理解を超えた神のみわざであり、あわれみであることを証しくださいました。