教会のかしらはキリスト

 先週の信徒会では、意見が割れました。実際に割れたわけではなく、強い賛成の兄姉と強い反対の兄姉がいたわけです。2-6-2の法則をご存じでしょうか。人が集まるところ、物事を進めようとするときに、不思議とその割合になるというのです。積極的な2割、反対の2割、そして、残りの6割はどっちにも傾くという説です。確かに集団はそういう動きをすることが多くあるように思います。
 世の中では、「多数決」というものの決め方をします。それでも、それを無理に推し進めようとすると「強行採決」と強い批判を受けます。もっと審議を重ねるべきだ。説明を丁寧に繰り返すべきだ。そして、修正を加えて落とし所を見つける。見切り発車はできない。そして、決まったらそれに従う。それが民主主義です。
 あるとき、一人の兄弟がこういう提案をしました。「教会の議決は全員一致とする」としたらどうか。割れる意見に心を痛め、一方で自らの中にも相容れない思いがあることを認めつつ、そう言うのです。理想論と言われるかもしれない。でも、教会はそうありたいと願う願いでした。ときに自説を「みことばに示された」と言う場合があります。本当に「みことばに示された」ならば、他の兄姉にも同じになるはずです。気を付けなければなりません。
 何よりも大切なことは「教会のかしらはキリスト」であることを肝に銘じてわきまえることです。教会は民主ではない。キリストがかしらなのです。そして、その御前にふさわしいか否かということがことを決めることよりも大切なのです。『ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。』(1コリ3:4)コリントの教会にパウロは言わなければなりませんでした。私たちは弱さはあっても、互いが十字架で買い取られた尊い器です。