旧約聖書の歴史と選び(2)〜信仰入門IX

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ22:36-40

旧約聖書を理解する上で大切な鍵の一つは「選び」であることと、その「選びの民」を主が導いて下さった歴史の半分を簡潔にお話ししました。神が「選びの民」に歩むべき大切な戒めとしてモーセを通して与えられたのが十戒を中心とする律法です。それは本来、神のきよさとみこころを教え、人の道を教えるべき大切な基準でした。もとより、人はそれを守ることなどかなわない罪人です。ですから律法のことばはただそれだけ守れと与えられたわけではなく、幕屋での礼拝と一つのパッケージとして与えられたのです。幕屋でいけにえを献げ、罪を悔い改め、神の恵みに立ち返り、信仰を持って神に寄り頼む歩みこそが選びの民であるイスラエルの歩むべき道であったわけです。
律法が「○○してはならない」という人を締め付ける規則になると、ただ窮屈なものとしか受け取れなくなります。口やかましい神様としか思えなくなるのです。あるいはうわべ守っていればと「いい子」になってみたり、人を裁く道具に使い始めたりもします。造り主なる神を認めずに「思い通りにしたい」という自己中心という罪こそがその本質だからです。旧約聖書の歴史が示すのはあくまでそのような人の姿であり、その結果の破滅やさばきです。

旧約の歴史はサウル、ダビデ、ソロモンの王国の繁栄の後、国が分裂します。直接的な原因はソロモンの子であるレハブアムが圧政を敷いたため、12部族のうちのユダ族とベニヤミン族以外の部族がヤロブアムを王に立てて新しい国を形成したのです。
それは律法の精神が忘れ去られているからです。神を愛することと隣人を愛することとは密接に結びついています。そして、神を愛すること抜きに人を愛することには限りがあるのです。幕屋での礼拝、それは立ち戻るべき悔い改めと赦しという場を継続的に持つ場です。自分自身も赦され、愛され、受け入れられていることを確認し、新たに信仰によって歩むこと決意する場だからです。その繰り返しがあってはじめて真に人を愛する歩みに導かれるのです。
さて、イスラエルの国は南王国ユダと北王国イスラエルに分裂します。それからの歩みはどうであったでしょうか。北王国イスラエルは、250年間続き、最後は大国アッシリヤによって滅ぼされました。残念ながら19人の王が立ちますが、神を恐れる者は一人としていませんでした。
一方で南王国ユダは、北王国の滅亡の後もさらに135年間続きました。ユダには20人の王が立ちましたが、こちらは堕落し続けるのではなく、それとともに霊的な覚醒が交互に起こりました。主を恐れる王が現れ、宗教改革が行われました。神に立ち返り、国を建て直そうと悔い改めをもって礼拝生活を新たにし、同時に民の間、隣人を愛することとが回復したのです。しかしながら、最終的にはアッシリアに替わって世界をとったバビロニアによって滅ぼされます。都エルサレムは破壊され、神殿は壊され、民は捕囚としてバビロンに引かれていきました。
その間、神は黙っておられたのでしょうか。そうではありません。神は絶えず預言者を送り、呼びかけて来られました。例えばエゼキエルは次のように語りました。「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。──神である主の御告げ──わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」(エゼキエル33:11)。神は民を見捨てることをせず、何度も何度も預言者を送っては民に呼びかけてこられたのです。神があわれみに富んだ愛のお方だからです。同時に、預言者をして救い主をお与えになるお約束を送られたのです。
しかし、そのことばには耳を傾けずに滅ぼされ、捕囚にされたユダ。主はそのままにはしておかれませんでした。大国バビロニアも滅ぼされ、ペルシャ帝国が世界を支配します。ときに、捕囚に引かれ辛苦をなめ、その中で神を呼び求めるようになったユダヤ人を解放して、エルサレムの再建が許されます。エズラやネヘミヤという優れたリーダーが立てられ、彼らは神殿を再建し、都の城壁を建て直し、新しい決意をもって神を礼拝する新しい生活を復興するのです。
再建と復興とは違います。彼らが導かれたのはただ単に元通りの国を作り直すことではありませんでした。あるいは神殿や都という目に見える箱物が再建されることではありませんでした。神に従わない不信仰こそが一番の問題であり、律法の神の基準。神を愛し、隣人を愛する生活こそがいのちの喜びだということをもう一度確認して取り戻したのです。そして、それにふさわしく生きる霊的な復興、リバイバルこそが彼らの祝福の鍵でした。
その歴史を通して神は私たち一人一人にも神に立ち返ることを呼びかけておられます。あなたも同じように神に立ち返るなら、本当の復興に導かれるのです。