時を待つこと

 一年で最も寒いこの時期、春を待ち遠しく感じます。冬の時期、多くの植物は休眠します。落葉植物は葉を落とし、一年草の草花は種を残して枯死し、芽は生長を止めます。日が短くなり、気温が低くなることでその時期を見分けます。そして、春になって日が長くなり、気温が高くなると、再び活動を始めます。つぼみが膨らみ花を咲かせ、花が終われば実を実らせるために葉を出し、栄養を蓄え、実りのときに向かうわけです。

 不思議なことに休眠期に十分な低温にさらされずに休眠から目覚めてしまった植物はほとんどが枯死するといわれています。また、暖かくなり、休眠から覚醒した後に再び寒の戻りがあると、耐えきれずに枯死することもあります。休眠中も生きています。ですから、その間に極端な小雨などで水切れを起こすとこれも枯死します。冬の寒さの中で、何も動いていないように見えても、まったく成長していないように見えても、その時はとても大事な時であるわけです。

 私たち人にも同じようなときがあるように思うのです。グングンと成長し、活動的にことが進むときがあります。しかしそういうときばかりではありません。一見、すべてのことが止まり、足踏みするように何ごとも進まない。一向にことが進まずにただ耐えているしかないようなときがあります。でも、生きているのです。時があるのです。

 私たちはいつも夏でなければならないのでしょうか。いつも成長が見えなければならないのでしょうか。実り豊かでなければならないのでしょうか。耐え忍ぶ冬、それはただ時を待たなければなりません。しかし、必ず時はやってきます。時を待つことで与えられるもの、それは自らの力で成し遂げた満足より神のなしてくださったことに対する感謝。それを待ち望みたいと願います。