暴力は暴力で解決せず

 今日は終戦記念日です。先立つ記憶は空襲であり原爆、そして命を落とした多くの人たちとその苦しみです。戦争は二度と繰り返してはならないのです。「戦争を知らずに僕らはは生まれた。戦争を知らずに僕らは育った」という歌も1970年。それから50年、「戦争を聞かずに僕らは育った」、すでに時代はそういう世代になっています。
 在アフガニスン米軍が20年に及ぶ駐留から完全撤退します。あの貿易センタービルへのテロから始まって、対テロへの報復、「悪の枢軸」を倒すという大義を掲げた戦争は何だったのかとにわかにニュースを賑わしています。アフガンに対してもイラクに対しても大義は消え、というより、元々「疑い」で始まった戦争が、大義はなくなったのにも関わらず続けられました。もう、割に合わないというところが正直なところなのでしょう。
 暴力を暴力で封じ込めようとするとき、そこには必ず憎しみと復讐心が生まれ、対抗勢力が生まれます。それが極端に振れると、イスラム国のような勢力も生まれてきます。情報網やメディアによって、今や世界の片隅で起こったことも瞬時に世界中に伝わります。従来の国家という枠組みだけでは収まりきらない勢力によって抵抗、報復や復讐が行われます。それは連鎖を続け、止むことはありません。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52)とイエス様が言われた通りです。
 私たちは祈り続けたいと思います。十字架のイエス様の愛と赦しと和解という神の国が拡がること。神の国を生きる者が地の塩・世の光となり、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)のように平和の使者として生きることができるように。また、「すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。」(1テモテ2:1)と。