最期に残るものは

 「あなたたくましくなったわねぇ。あのやせチビが」とは、私を見るたび、といっても毎日の日課のように、母は繰り返します。認知症が進んだ母は、直近のことはみな忘れてしまいます。午後になれば、午前中のことは忘れ、夕方になれば、午後のことは忘れてしまいます。そして、記憶に残っていることは50年も前のことであったり、70年も前のことであったりします。
 私たちのいのちで、最期に残るものはなんだろうかとしばしば考えます。形あるものは全てなくなります。何もかも目の欲するものすべてを手にした伝道者は次のように言います。「実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。」(伝道者の書2:22)ヨブは財産である家畜やしもべ、家屋敷と大事な息子や娘、自分の持ち物すべてを失ったときに言いました。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)
 最期に残るものは目に見えるものではありません。「あぁよかった」と感謝をもって天に帰ることができるためには、「心残り」をすべて精算することでしょう。そのために必要なことは「赦し」。もう一つは、地上でし残したこと、それはたくさんあるでしょう。あれもこれも、これもあれもととらわれずにすべてを主の御手に任せること、委ねることではないでしょうか。
 老いを受け入れるということは、人生で食い散らかしてきたことをなんて言ったら失礼でしょうか、それらのものをきれいさっぱり主にあって掃除することです。かたちあるものはどうとでもなります。問題は心。
 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示21:4)ここに焦点をともに合わせましょう!