死を見て、いのちを覚える

 先週、古くの教会員でありましたO姉のお母様Mさんが召されて、家族葬をしました。97才という長寿をいただいてのことでしたので、よくここまで生かされたとの感謝が、そして、それを看取ることができた感謝と安堵が、別れの悲しみよりも大きい思いがしました。

 大正から昭和、昭和から平成と激動の時代を生き抜いてこられたその長い人生には、人知れぬ様々な出来事があったことでしょう。若き日に戦争がありました。同年代が出征する時代。親しい人たちの多く戦地に散ったことでしょう。戦後の混乱期からの復興、豊かな時あり、苦しい時あり、健やかな時あり、病や怪我、失う経験も少なくなかったことでしょう。生きた年数だけ、喜びも悲しみも、楽しみも苦しみも経験してきたはずです。

 一方、長寿を許されたにせよ、短命であったにせよ、誰にも同じように死はやってきます。長い闘病の末取り去られるいのちもあれば、突然失ういのちもあります。地上においてそれぞれに違ってはいても、必ずその時はやってきます。死を前に、私たちがいつも問われるのは、それではあなたは今、どのようにいのちを生きていますかという問いです。

 悔いることなく、ただ感謝をもって主にいのちをお返しできる備えができていますか。やり残したこと、言い残したことが残ってはいませんか。すべてをそのようにできなくとも、委ね任せるられますか。はっきり答えられなくても、日々問い直すなら、それが私たちの死への備えであり、限りあるいのちを生きる秘訣ではないでしょうか。

 「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」詩篇90:17