洗礼という出発

 今日は洗礼式を執り行います。主がここまで導いてきてくださった恵みをともに感謝しつつ、私たちがいただいている洗礼の意味を今一度確認しておきましょう。

 教会には洗礼(バプテスマ)と聖餐の二つ聖礼典がであります。この二つは主イエス・キリストによって制定され、代々の教会において重んじられきました。洗礼は「キリストの死と復活にあずかるバプテスマ」と聖書にあるように、私たちの罪の「古い人」がキリストと共に死んで葬られ、キリストが死からよみがえられたように、私たちもキリストの復活にあずかり、新しいいのちに生きるものとされたしるしとして受けるものです。

 ルターは『小教理問答』で「古いアダムは溺れて死ななければならない。」と言いました。同時にこうも書きます。「どっこい、この古いアダムは泳ぎが大の得意なのです。」私たちは地上に生きる限り、この戦いの場に置かれています。しかし、イエス様の洗礼のときに御霊が降り、また、使徒の働きではバプテスマを受けたサマリヤ人が、カイザリヤで異邦人に聖霊が降るというしるしが与えられました。聖霊は、バプテスマに与る者に与えられる神からの賜物です。弱い私たちを常に導いてくださるのです。これからは、この御霊に導かれて歩むのです。

 また、洗礼はキリストのからだである教会の一員とされることです。罪のためバラバラだった私たちはキリストによって一つからだに集められました。このからだの一部になります。そして、もう一つに聖礼典である聖餐にあずかります。その度、私たちは一つパン分け合って、一つであることを告白します。からだで味わいます。噛みしめて同じ思いに立ち返ります。洗礼、それは新しい生き方、新しいいのちを始める日。すべてを新しくする歩みの祝福を祝いましょう!