災害に備える心

 去年の今頃は暑かった!そうです。今年は記録的な雨と日照不足が続いています。各地の豪雨の被害に心傷みます。福岡県久留米という地名がよく出ます。そこにテレビに映るスーパーがあります。久留米教会の渡辺牧師にもしやと思って聞いてみました。「あの場所って、低い場所で誰も住まなかった所じゃない?」と。思った通りでした。古くから雨が多い九州、低地で危ないから誰も住まなかった場所。だから、畑地や水田だったところに、農業後継者問題もあって、大規模なショッピングモールが立ったわけです。
 3月に三陸を訪れた際、津波に流された陸前高田。大規模な嵩上げがされた造成地に住宅は建っていませんでした。石巻の海沿い、ここも壊滅的な被害を受けたところですが、何も建っていません。みな危険だとわかって住むのをやめたのです。そこまでしないと危険を認識できないのが人なのでしょうか。
 甲府市のハザードマップを改めて見てみました。教会のある場所は武田神社から甲府駅にかけて、愛宕山から相川に挟まれた地域に洪水は想定ゼロです。盆地の南に行けば行くほど、危険度が増します。かつて、信玄堤をして治水に力を注いだ信玄がこの地を選んだのはそれをよく知っていたからでしょうか。今だけが異常気象であったわけではなく、数百年というオーダーで危ないところに人が住むようになったということなのでしょう。
 「絶対安全」などということは世にいる限りないでしょう。ですから、すぐにどうとはできません。せめて、危険を知り、備えをしておくこと、ヤコブのように「失うときは失うのだ」(創世記43:14)、あるいはヨブのように「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)と心備えし、持てる財産に頓着しない。もっと大切なもの、いのち与えられ、ともに生きる人たちがいて、日々に感謝を覚えること。そのような心備えこそ、最も大切ではないでしょうか。