神であり人であるお方(1)〜罪なき生涯〜信仰入門X

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。詩篇1:1

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ヘブル        4:15

 旧約聖書の歴史が私たちに教える大切なメッセージは、あくまで人は罪人であり、自分を救えないこと、神は人を決して見捨てることなく、愛しておられることです。その神は救い主をお送り下さいました。それがイエスです。しかし、イエスが救い主であることを人が受け入れ、信じることは簡単ではありません。新約聖書とりわけ福音書はイエスが神の子救い主=キリストであることを伝えるために神が与えてくださったのです。

 マタイの福音書は旧約聖書に書かれている選びの民の系図から始まっています。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図・・・」アブラハムの選びについては既にお話ししました。彼の選びは、罪の世界の中にあってまったくもって神の恵みによることでした。系図の中には3人の女性の名が出てきます。タマルはユダの嫁でした。夫を亡くし、後に入った弟夫も亡くし、まだ成人しない次弟を与えなかった舅に遊女を装って身ごもるという曰く付きです。ルツは異邦の民モアブ人でした。夫を亡くし、信仰によって姑とともにイスラエルに帰り、選びの民に加えられた女でした。ウリヤの妻とはダビデ王が部下であるウリヤの妻を寝取り、証拠隠滅のために彼を殺害したという大スキャンダルの結果です。そればかりではありません。その名を聞けばその歴史に汚点を残す罪が営々と続いた歴史なのです。イエスはその中に生まれてきたのです。

 一方、その誕生は処女降誕でした。人知れず、当の許婚のヨセフですら内密に去らせようと考えたあり得ないと思う出来事です。聖霊によって身ごもった?そんなことは、人類の歴史の中で起こったことなどただの一度ありません。ある人は後からイエスを神格化しようとした作り話だと考えます。マリヤも「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」とその戸惑いを正直に告白しています。しかし、彼女は「神にとって不可能なことは一つもありません」とそれを受け止めます。このことばが言い当てているのは、私たち人間の考えや理解を超えた神からのものであるということです。

 では、どうしてイエスは処女から生まれなければならなかったのでしょうか。それはアダム以来の生まれながらの罪、原罪をもって生まれるのではなく、罪なきお方でなければ罪を担うことができないからです。イエスのみわざの中心は十字架でいのちを捨てることでした。裁かれるべき人の罪の身代わりとなるためです。罪なく生まれ、かつ罪ある人の身代わりになるために、処女から生まれるという方法を神はお選びになったのです。

 人としての生涯を歩まれたイエスは、大工ヨセフの子として育ち、ごく普通の生涯を歩まれました。ただ一点、罪を犯されなかったことを除けば。そのイエスがいよいよ活動を開始された最初の出来事はバプテスマのヨハネから罪の悔い改めの洗礼です。ヨハネは固辞しますが、イエスはあえて洗礼をお受けになりました。それは罪なきお方が罪ある人と同じになることを意味しました。

 そして、40日40夜の荒野の誘惑をお受けになります。第一の誘惑は石をパンなるように命じる誘惑でした。それは神抜きに物が満たされれば生きていけるという誘惑です。この世の中で豊かさが覆い隠すものは少なくありません。愛の代わりに、物でごまかすことができます。お金や物で人を操る人もいれば、それが原因で奪い合い、争い合うのが人間です。「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17:1)誰しも納得する小さな幸せですが、欲はとどまることを知りません。それが人の罪です。イエスはその誘惑を『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と退けました。たかがパン。されどパンなのです。

 第二の誘惑は神殿の頂から身を投げるように。神が御使いたちに支えさせるからという誘惑です。それは自分に都合よく神を、あるいは人を操る誘惑です。人のいのちは神の栄光のため、神を愛し、隣人を愛する「わたしよりもあなた」の原理を生きるためです。しかし、私たちは与えることよりも受けることを、愛することよりも愛されることを、仕えることをよりも仕えられることを求めます。そして人から奪うのです。

 第三の誘惑は、すべてを手に入れる誘惑、すべてが思い通りになる誘惑です。一度罪を犯すと、次にはもっと敷居が低くなります。どうせもう一回やったんだから、一回も二回も同じだと人は思うのです。そして罪から抜け出すことはますます難しくなります。最初の誘惑に打ち勝つことは最も困難なこと。ことば巧みに誘いかける悪魔にイエスは打ち勝たれたのです。

 どれも最初の人アダムが受けた誘惑と相似します。そしてイエスの生涯がその試みと戦う生涯でした。私たちが誘惑に遭うとき、これら全てに勝利したお方が私についていてくださるとしたら、どんなにか心強いことでしょうか。高いところからではない。罪深い私たちと同じところに立ってくださったのです。なお私たちの罪の身代わりとなっていのちを捨てるために。