神であり人であるお方(2)~神の子のしるしと神の国〜信仰入門XI

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか・・・だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:25-34)

 バプテスマのヨハネから洗礼を受け、また悪魔の誘惑にあわれたイエスはそれに打ち勝ったイエスは神の国の福音が宣べ始められます。イエスの宣教には数々のしるしが伴いました。それにはどんな意味があったでしょうか。

 イエスの宣教の始まりはガリラヤ地方から始まりました。カナの婚礼では水をぶどう酒に変え、悪霊を追い出し、病気を癒やします。人々はみな驚いて、互いに論じ合います。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」(マルコ1:27)キーワードは権威です。中風の人が癒やされたときのことです。イエスは「あなたの罪は赦されました」と言われましたが、律法学者たちが心のなかで理屈を言ってつぶやいたことが出てきます。「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」数々の奇蹟はイエスが神の子であることを知らせるしるしだったのです。

 一方、イエスの故郷ナザレではイエスのわざを見ながらも、「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」(マルコ6:3)とつまずきます。イエスの身内の者たちがイエスを連れ戻しに来たほどです(マルコ3:21)。正直な思いでしょう。イエスがにわかに神であるということを信じることができなかったのです。

 しかし、それを信じた人たちはイエスのもとにやってきます。百人隊長はおことばをくだされば、病気のしもべは直りますと告白し(マタイ8:8)、長血の女はイエスの着物にさわるだけでもいやされると信じました(マタイ9:21)。そして信じたとおりにいやされるのです。

 それでも、それを間近で見た弟子たちですら驚くようなできごとがありました。ガリラヤの湖で大暴風が起こったときのことです。イエスが風と湖をしかりつけると、大なぎになりました。弟子たちは「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と驚くのです(マタイ8:27)。

 よみがえりの後、イエスは「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)と言われました。いっさいの権威を持っておられる全知全能の神なのです。数々の奇蹟はそれを知らせるしるしであったのです。

 さて、イエスの語った神の国とはどのようなものでしょうか。主権、国民、領土の3つが揃うと国になります。そしてわたしたちは意識するとしないとに関わらず、国に生き、国民としての権利と義務を負って生きています。一方で、目に見える国はときに国民を悩ませ、苦しめます。また、ひとりひとりという個々人が尊重されることなく全体主義的傾向も持ち、何かを強制したり、あるいは無視されて置き去りにされたり、横暴に振る舞うこともあります。

 神の国とは、主なる神ご自身が主権をもって治め、信じる者は誰でもその国民となり、どこに行っても、どこであっても神がともにいてくださるところです。その神の国の到来のしるしがイエスのしるしのもう一つの側面です。

 一切の権威をもって導く神がおられるのであれば、病はいやしに、悪霊は追い出され、悲しみは喜びに、涙はぬぐい去られ、絶望は希望へと変えられます。奇蹟はただ単に解決してよかったということだけではありません。私たち人間を縛り、人間の力ではどうにもできないすべてのことに、「神ならできる。だから委ねよう」という信仰をもって生きる者に対する神の確かな導きをあかしするしるしなのです。そして、あなたも神の国の国民として信仰をもって生きるようにと招かれています。どのように受けとるべきでしょうか。

 イエスの地上の生涯は神でありながら人として生きる生涯でした。人は神にはなれません。一方神はご自身を捨てることをして、人となってくださいました。どんなことでもなすことのできる全能を捨てて限りある人に、どこにでもおられる遍在を捨ててからだの動ける範囲に、疲れを覚える限りある体に、永遠を捨てて死ぬべきからだに。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6-7)とある通りです。神学用語ではこれをキリストの謙卑(けんぴ)と呼びます。

 遠いお方ではなく、近くに来てくださった神。そして私たちの疲れや限界、悩みや痛みを知っておられ、天でとりなしていてくださるお方。

 だからこそ、私たちはこのお方に望みをかけて神の国とその義を第一に願うのです。いっさいの権威をお持ちの主イエスがすべてを益としてくださる。それこそ私たちが招かれている神への信仰です。あなたも信仰をもって歩みましょう。