神に立たせられる牧師という務め

 今年も奉仕神学生を迎え、その研修と成長をともに担い祈ることができることを感謝しています。牧師になるということ、それはどのようにして導きを確認するのでしょうか。

 「私、神から召しをいただきました。献身して牧師になります」と志をいただいた人がいたとします。そう本人が言ったら牧師になるのでしょうか。そもそもその「召し」が単なる本人の「思い込み」だったらどうでしょうか。しばしば、そのようなことが起こり、ときに本人も教会も傷つきます。

 使徒はイエス様ご自身がお選びになりました。使徒の13章には「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」とアンテオケの教会に志が与えられたことが記録されています。パウロの書簡には監督や長老、執事の職に任じるときには審査を受けさせないという教えが与えられていますし、初代教会の執事には「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」(使徒6:3)が立てられました。

 本人に志が与えられたならば、教会を通して吟味が加えられます。教会から送り出されるとき、神学校に入学するとき、学んでいるとき、卒業するとき、教会に招聘されるとき、奉仕を続ける中で、と絶えず神と教会の前にふるいををかけられ続けるのです。

 御霊と知恵に満ちた、ということには神様ご自身と取り扱いと長年の経験の中で練られた知恵や知識は成長が期待できるでしょう。一方で「評判のよい」ということは訓練や見せかけでできるものではありません。「この人なら任せられる、任せてみよう」という人が立てられる必要があるのです。

 残念ながら私たちはそのすべてを見極めることはできません。しかし、与えられたこのような原則を踏まえ、奉仕者を訓練し立てていくことをともに祈りたいのです。