神のかたちといのちの意味 II 〜愛するために生きている〜信仰入門(3)

人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。創世記2:25

神のかたちに造られたことが意味する一つは、私たちが人格を持つ者、自ら考え、自ら決定し、自ら行動する主体であることを前回お話ししました。もう一つの意味は、私たちが愛し合い、一つになることを喜ぶ存在であるということです。

人は一人では生きていけません。私たちはそれを経験的に知っています。私たちの心の中には思いを誰かにわかって欲しい。理解して欲しい、受け止めて欲しいという欲求を持っています。また、誰かの助けになりたい、人の役に立ちたい、喜ばせたいという他者に対する思いやりの心を持っています。また、一つ思いになりたいと願い、それができたときの一体感は何にも代えがたい喜びです。声を合わせて歌うハーモニーが心を打つのはなぜでしょう。スタジアムで一つになって応援する高揚感はなぜでしょう。男と女が互いに求め合うのはなぜでしょう。


神が人を創造したとき、「男と女とに彼らを創造され」ました。最初から神のデザインは男女ペアであり、一人ではないのです。人という文字が、ひとりとひとりが支え合って初めて人となるなどといわれます。人が人として生きるときに必ず他者を必要とするのは、人がはじめからそのように造られているからです。

愛ということばほど多様な意味に使われることばはないでしょう。それについては改めてお話ししますが、愛は必ず相手あってのことです。私は愛していますといっても、愛の対象がなければ何の意味もないひとりごとです。相手があって、行動を伴うのが愛です。神は永遠から永遠に愛の神であるということは、3つの位格、父なる神、子なる神、聖霊なる神として、それぞれに自ら考え、自ら決定し、自ら行動なさりながらも、完全に一つの愛のお方なのです。永遠から永遠までそのようなお方なのです。私たち人間の経験ではそのようなことは稀です。私のことは私です。ところが、神ご自身は、私はあなた、あなたは私というお方なのです。

神が人をお造りになったご目的はここにあります。ご自身の素晴らしい一つである愛を表したかったのです。そして、それを一緒に喜びたかったのです。ウエストミンスター小教理問答書という古くから親しまれている信仰問答書があります。その第一は、「人のおもな目的は、何ですか」という問いです。そしてその問いの答えは、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」です。それは「どのようにしてなされるでしょうか。私たち神のかたちに造られた者が、互いに愛し合い、一つになることで私たちは神の栄光を表し、いのちの造り主なる神を喜ぶのです。

創世記の2章には、アダムがまず先に造られたことが書かれています。主はアダムの前に動物を連れてきて、それぞれを名づけさせます。名づけることには大切な意味があります。私たちは自分との関わりにおいて名前を呼ぶのです。花の名前を考えてみましょう。自分が世話をし、大切に育てている花の名前を知らないなんてことはありません。名前を覚えて区別します。私はバラを育てていますが、ドルシュキとかスノープリンセスとか、ローラアシュレイなどそれぞれに名前がついています。ところが興味のない人からすればバラはバラです。それ以上関わりがないからです。ペットにも名前をつけます。ところが他からみれば、お宅のワンちゃんであり、ネコちゃんです。
アダムはそれぞれ自分との関わりにおいて名前をつけたわけですが、「ふさわしい助け手が見つからなかった」のです。それは彼が本来愛し合う者として、一人ではなくペアでデザインされ、いのちを与えられたからです。他のものでは決してそれを埋めることはできないのです。
神が女を彼のあばらから作り上げて、連れてこられたとき、彼は「これこそ、今や、私の骨からの骨、肉からの肉」と狂喜して喜びました。二人は一体となり、「裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」のです。彼らの中に隔てられるものはありませんでした。

私たちのいのちは、そのためにこそ造られたのです。あなたの存在は、あなたでなければ届かない人がいます。あなたが愛するように隣に置かれた人がいます。仲間がいます。家族がいます。自分のために生きる人生は決して満たされません。他者のために、愛するために生きるならば、そこに必ず喜びがある。そのいのちをともに生きようではありませんか。