群れの意思と公同の教会

 教会連合の奉仕に長年携わり、「教会の自立と協力」というテーマについて、長く考えてきました。そして私なりの理解を持つようになりました。それは、どんなに小さな群れであっても、たとえそれが二人、三人という群れであっても、群れにはその群れの意思というものがあって、それはできるだけ尊重するべきものだということです。

 傍から見ていて、危なっかしいなぁと思うことがあります。他の選択肢があるのになぁと思うもあります。これから先のことを考えると今手を打たないと手遅れになりそうに見えることもあります。それは、他の家族や夫婦を見ていてそう感じるのと同じです。よっぽどのことがない限り、それを口に出したりはしないでしょう。当人たちが自らのことを自らで考え、決断し、行動するのです。そして、それに責任を持たなければなりません。周りは、それを励ますことがその務めです。 

 教会というところ、その単位は毎週一緒に礼拝を献げ、ともにみことばを聞き、ともに祈る群れが一つの単位になってきます。一つ釜の飯ならぬ、一つみことばの糧を一緒に聞き、受け止め、考え、祈る群れです。一方で自分たちのことを考えると、客観的にものを考えられなかったり、大局的なものの見方ができないということも、しばしば起こります。ですから、自分には見えない視点でアドバイスくださる人は貴重です。

 そして、忘れてならないことは、そのようなローカルな教会を超えて、公同の教会に私たちは召されているということです。ですから、見て見ぬふりはできません。それぞれが他をなくしてはあり得ない群れだからです。群れと群れがよい協力をもって互いに支え合うとき、そこに働く愛の交わりによって、主イエス様の恵みをそれぞれが、また、ともに生きることを祈りましょう。