老いてもなおみずみずしく

 先日、初めてキリスト教老人ホームのさきがけである筑波キングス・ガーデンを訪問しました。お交わりのあります姉妹が入居したからです。姉妹は稀にみる「スーパーおばあちゃん」でした。気力・体力ともに壮健、ご主人を送って12年、まだ十分一人で暮らせるところでしたが、忍び寄る衰えを日に日に感じて、いよいよの時の備えのためにすべてを整理して初夏に入居したのです。

 クリスチャンが共にいのちを全うする理想郷を描いていたのですが、自分を含めた老いを受け入れることは容易ならざることにはじめから直面され、戸惑いながらもそれと戦っておられました。若いときに覚えたみことばがどこからでも出てくる人、祈り始めれば、素晴らしい信仰をもった祈りが口から出てくる人がいます。一方で、それに伴う行動が同じようには出てこないのだそうです。

 まだ力のあるうちには覆い隠すことができます。教会の中や地域の場という限られた関係であるならば、見ることも一部であったでしょう。しかし、毎日の生活の中にはすべてが露わになります。一歩歩けば、今言ったことを忘れ、同じことを繰り返します。昨日の約束など覚えてはおられず、何度言ってもぬかに釘。おまけに、自分のことしか考えられなくなって、不満と悪口がでてきます。それが、一方方向にしか進まないのです。残念ながらそれが老いというものです。

 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、

 みずみずしく、おい茂っていましょう。

 詩篇92:14        

 一方、聖書の中には老いてもなお、みずみずしく生きる人が出てきます。その秘訣は何でしょう。いのちの与え主である主を知ることです。このお方の前に生かされてある日を喜ぶことです。感謝することです。たとえ今日がどんな日であったとしても。