聖餐の意味(1)

 今、私たちは礼拝をオンラインで守っています。そして、再び集まってともに礼拝をおささげする日を祈り待っています。いつもと同じようにとはいかなくなったとき、改めていままでしていたことの意味を問われます。おそらくアフターコロナの世界では、いままで惰性でしたことの多くが問い直されることでしょう。何回かにわたって、私たちが習慣にしていることについてその意味を問い直したいと思います。最初に聖餐です。
 福音書を読むと、宣教を始められたイエスの周りには人々が群れをなして集まるようになりました。いやしの奇跡のためです。続いて、5つのパンと2匹の魚で五千人が養われる給食の奇跡と言われるできごとが起こると人々はイエスを王にしようとしました。病気をいやし、食べ物を与える。それは人がいつの時代にも求めることです。しかし、それだけでは生きられません。「人はパンだけで生きるのではない」と言われた通りです。
 そのイエスが「まことに、まことに、あなたがたに告げます。…わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:54)と言われました。これはとりもなおさず、ご自身の十字架のことです。イエスの十字架こそ、私の罪を身代わりに負ってくださった十字架だと信じ生きることです。心からそれを信じるならば、神の赦しと愛を受けます。
 心で信じればいいのでしょうか。イエス様は自らの告白を確かなものとするために二つの礼典を与えてくださいました。洗礼と聖餐です。どちらも象徴です。食べるという行為は自らの意志なしにできません。目で見て確認し、口に入れて味わい、飲み下して自らの力にする。途中でおかしければ吐き出します。キリストの十字架の象徴であるぶどう液とそのからだの象徴であるパンを食べることを通して、私たちは告白を繰り返し、信仰を新たにするのです。