解決よりも大切なもの

 神であられるお方が地上に来てくださったのがクリスマス。イエス様の降誕です。そのイエス様が地上で受けられた最初の誘惑、それは荒野で受けた3つの誘惑でした。断食の後に石をパンになるように命じること。神殿の頂から身を投げてみること、この世のすべてを手に入れること。
 「キリストは問題を解決することに取りつかれませんでした。それは砂漠の誘惑だったのです。人々の問題を解決し、癒やすことに力を注ぎ、心をかけないことが私たちの誘惑だったのです。
 心をかけるということは、苦しみのあるところ共にいることを意味します。それは命の神秘が目に見えるように共に生きる道なのです。」ヘンリ・ナウエン「平和への道」より
 3月以来、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣くこと」を私たちは問われ続けています。一方で私たちがメディアで目にすることの多くは解決に向けての問題です。緊急の物資の必要が満たされること。復興に向けてガレキが処理されることから始まって、住宅問題、雇用問題、原発の収束問題、放射能問題、除染問題、食の問題、補償問題。数え出せばキリのない問題の山です。
 いつも私たちは同じことを問われます。もちろん、どれも解決が求められることで、どうでもいい問題であるわけではありません。
イエス様がここにおられたなら、どのように今これらに向き合っておられるだろうか。天から下ってきて、またたく間にこれらを解決されるだろうか。いや、イエス様も地上におられるときには、「主よ。もしここにいてくださったなら」と言われたのです。ラザロの死の時です。そしてイエスは涙を流されたのです。手軽な解決ではなく、思いと心に寄り添い、愛をもってともに生きること。あなたのなすべきことは何でしょうか。