誰かのために生かされている

 先日、「なんだか意欲が湧かない」という話をしました。コロナ禍の中、人と会う機会がぐっと減りました。それと深く関わりがあると思うのです。それは私たちが日頃、当たり前のようにしていたこと、誰かと会い、分かち合っていたこと、それも、とりたてて大きなことではなく、日常のささいなことを分かち合うことを失ってしまったからなのだと思うのです。
 ちょうどそれは、料理と食事によく似ています。料理というのは、たいてい、誰かに食べてもらうため、あるいは誰かと一緒に食べるからこそ、腕を振るうものです。自分だけのためだったら、残りご飯にお茶漬けで終わりにしちゃおうかとなります。よっぽどの人出ない限り、手の込んだ料理を自分のためだけにするなんてことはありません。それは、私たちが「誰かのために生かされている」からです。自分のために生きて、自分のためにだけことをしようとしても、人は決して満たされません。
 私の母は寝ていることが多くなりました。それでも食事の時間になると、ほぼ、というのは、そうできないこともあるのですが、台所に立ちます。すでに買い物に行く力はなくなってきました。それでも、自分では買い物に行ってきているつもりです。そして、「お父さんに、食事を作らせたことはない」と言うのです。それが、生きている証なのでしょう。生きててくれればと周りは思うかもしれません。しかし、人は誰かのために必要とされているということが喜びなのです。
 だとすれば、不平不満を取り払って必要とされていることを喜んで、仕えることを喜びとして生きている限り、最期まで与える生き方をしたいものです。
 「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきである」使徒20:35