騒音と静けさと愛と

 引っ越しをしてから、新しい家はどうですかと聞かれることが多くあります。答えは「静かになりました」です。武田通りに面したセンターでは、絶えずクルマの音、通りを行き交う人の話し声が夜遅くまでしていました。それがないだけで静かに感じます。もっとも、教会にいれば同じように静かなのですが。これまで意識したことはありませんでした。それが当たり前であったからでしょう。離れてみてはじめて意識したことです。そして、ぐっすり眠れるような気がします。

 私たちが耳にする音には、さまざまな音があります。うるさいと感じるのは、クルマの騒音や騒がしい話し声など、自分とは無関係な音です。「騒」という漢字は、馬が蚤にくわれて、かゆがって騒ぐ様から来ているそうですが、煩わしいものです。一方で、快いのは、小川のせせらぎや遠く聞こえる波の音、そよ風のさらさらした音など。また、音楽は文字通り、音を楽しむよい音です。ときにうるさい!ということもありますが。

 私たちの声は、ことばを伝える大切な役割がありますが、それは、人を慰めたり励ましたり、コミュニケーションとしてとても大切です。ですから聞こえなくて困ることもあります。それが煩わしくなるのは、余計な一言であったり、悪意あることばや無遠慮なことば。そうだったら、静かにしてもらった方がよっぽどいい。黙っていればいいのに!というときです。そこに愛がなければ、「やかましいドラやうるさいシンバル」と同じになってしまいます。

 「黙っているのに時があり、話すのに時がある」(伝3:7)のことばのように、TPOをわきまえるのも大切なことです。そして、いつも「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」(コロ4:6)とあるように心がけたいものです。