夢の不思議とコントロール

 久しぶりにハッキリ記憶に残る夢を見ました。まだセンターに住んでいるところ、水道の水漏れをしているところにW兄が助けに来てくださったのです。主日に、教会の下水道が詰まり、W兄を中心に枡に溜まった汚水を汲み出し、詰まりの原因を取り除こうとしたのですが、取りきれず、月曜日にW兄が道具を揃えて取ってくださいました。その修繕をしてくださったことに加えて、夢の中でもお世話になり、感謝の心で一杯になって、お礼の電話をしました。
 私たちの見る夢というのは不思議です。登場人物や場所は自分の記憶に関わりがありますから、頭の中に、あるいは心の中にあることが現れるのでしょう。聖書の中には夢の中に主が現れ、ことを告げられたことが出てきます。その中には、さっぱりわからない夢、その意味が明らかにされていく、たとえば、ペテロが「きよくない動物を屠って食べなさい」と言われたようなパターンと、思い悩んでいたことが夢でハッキリするヨセフがマリヤを受け入れていくようなパターンとがあります。主が夢をお用いになったのでしょう。私の場合はどうか?あえて、こじつけるならば(笑)、「感謝の心で満たされる」ことでしょうか。
 私たちは自分に関わることをコントロールしようとし、そのためにともがきます。見ること聞くことも、自分の都合よいことしか見ず、都合の悪いことは聞きません。ところが夢は一切コントロールできません。夢に関わることばはたくさんありますし、実現困難な願望は「夢のような」と言い、将来の展望を夢とも言います。みな自分でコントロールしきれないことです。それらはみな神さまが与えてくださった出会いによって導かれるのです。いのちの日が主の導きによって導かれ、私たちの願いを超えてよきことをしてくださる御手に委ねること、それを受けとめる柔らかな心でいたいものです。