エルサレムで起こったパウロ迫害の騒動の事情聴取のためにユダヤの議会が招集されます。江戸時代の幕府と大名・代官と地元実力者の関係のように、ローマの皇帝と王・総督とユダヤ議会が当時の社会構成です。その中でパウロは自身について証をします。「いったいあなたは何者か」と問われているのですが、一方でそれは「いったい私は何者か」と逆に問われることでした。
その場でパウロの言葉が論議を巻き起こしました。サドカイ人、彼らはひと言で言うと宗教右派。その常套句は「前例がありません」。宮の管理や祭儀、礼拝を司る彼らは伝統を重んじます。パリサイ人、彼らは律法原理主義者。その口癖は「どこに書いてあるか、誰が言ったのか」。パウロは「死者の復活という望みのことでさばきを受けている」と言うや、彼らの相違が明らかになり、議会は割れます。
実に、信仰者の存在はしっかり信仰に立った生き方を始めるや周りに論議を引き起こすものです。そしてそれは信仰者の心をも揺さぶることでしょう。パウロはこれからローマにイスパニヤに福音を述べ伝えたいとの願いを持っていました。福音のために死ぬ覚悟をすらしているパウロであっても、心細い思いをしたのではないでしょうか。
主はその夜、励ましを与えます。「勇気を出しなさい・・・。」あぁ、何と心強いことであったことでしょう。そう、私は主に愛されている。これほどまでに罪深い私が恵みを受けて愛されている。どんなに困難に見えても主は私を導いてくださっている。キリスト者にとっての頼りの綱はそこにあるのです。困難に遭うとき、「いったい私は何者か」と問いかけるなら、主は必ず答をくださり、私たちに勇気をくださるのです。あなたにも。