礼拝説教

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「祭壇を築く」創世記22:1-14

 礼拝という言葉、旧約聖書では元来「ひれ伏す」ことを指す言葉です。アブラハムやロトが御使いを迎えたとき、ヤコブがエサウに再び会うとき、エジプトのヨセフの前に出る兄弟たち。十戒の偶像を拝んではならないと言われること。礼拝の Continue Reading →

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「祭壇を築く」創世記22:1-14

 礼拝という言葉、旧約聖書では元来「ひれ伏す」ことを指す言葉です。アブラハムやロトが御使いを迎えたとき、ヤコブがエサウに再び会うとき、エジプトのヨセフの前に出る兄弟たち。十戒の偶像を拝んではならないと言われること。礼拝の Continue Reading →

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「平和の器に」コロサイ3:1-16

 平和を願うところ、難しいことばは必要ありません。私たちが互いにあいさつを交わし合うことです。ヘブル語の挨拶はシャロームですが、その意味は多様です。平和、平安のみならず、繁栄、健康、充足、救い、勝利という神の祝福を祈るこ Continue Reading →

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「礼拝の心、献身」ローマ12:1-2

 この箇所、「ですから」という言葉で始まっています。ローマ書は、1章から11章まで、神がなしてくださった救いのみわざ、教理をパウロは語り、この12章から、信仰者の生活その適用を教えているのです。その最も重要なことは「神の Continue Reading →

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「救いの目的」エペソ1:3-7

 礼拝についてしばらく一緒に学んでいきます。私たちは礼拝というとどうしてもプログラムであるとか、形を考えますが、礼拝とは何ですかと問われたとき、明確な答えを持っているでしょうか。礼拝の心、姿勢、神のみこころを聖書の中に確 Continue Reading →

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「私の兄弟、姉妹、母、父」マルコ3:31-35

 家族に働く「均衡」という力学、イエスの家族も同じように「気が狂ったのだ」という声に連れ戻しにやってきます。ところが、イエスに近づくことすらままなりません。イエスはその呼びかけには答えず、まったく別のことを言います。「わ Continue Reading →

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「それでもなお拒むのか」マルコ3:20-30

 イエスの宣教の始まり、それは神の国の到来を知らせる祝福のわざが行われました。一方そこには反発・拒絶が起こります。  イエスを連れ戻しに身内の者たちがやっています。マリヤは処女降誕から始まって、神のなさる不思議なわざをそ Continue Reading →

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「イエスの弟子たち」マルコ3:13-19

 イエスは弟子たちを選び、任命するのですが、「山に登り」とあります。日常の喧噪から離れて祈りに集中なさったのです。イエスはしばしば、そのように寂しいところ、何もない、静かなところに退き、祈りの時を持ちました。そして、神と Continue Reading →

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「みんななのか、私なのか」マルコ3:7-12

 ガリラヤから始まって、続々とイエスのもとに人々が集まります。その目的はいやしです。この群衆、イエスのところに行くなら、病がいやされる。みんながイエスを自分たちにとって都合のいい、願いを叶えてくれる存在にしようとする。い Continue Reading →

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「心貧しき者の幸い」マタイ5:1-9

 人は生まれ育ちを選ぶことができません。N兄の生まれ育ちは過酷でした。寂しさ、不信、 信じられるは自分だけ。強く生きようとすることで自分を守ってきました。しかしその強さも、酒の力を借りなければならなかった。それが破綻して Continue Reading →

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