東京裁判。敗戦後、戦犯を問うた裁判です。戦勝国が一方的に裁く裁判でした。今後の日本のあり様に関わるため、天皇の戦争責任も、原爆のことも問いません。公正ではなく、先入観と偏見、意図をもってなされたことでした。BC級の戦犯には自らの意思があったわけではありません。軍人にとって上官の命令は絶対です。それに従ったまでです。しかし、いざ裁判となるとあなたはどうかと問われるのです。言い訳も通用しません。誰もが減刑を願い、言い逃れを考えます。
私たちの罪も同じです。裁かれるなんて思いもよらない。みんながしているようにしてきたに過ぎない。暗やみの中をサタンの支配の中を生きてきたということは、罪が罪としてわからない。そういうことです。イエス様は「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます」と言われます。知らずに平気で人を傷つけるのが私たち。あなたも私も裁かれるべき罪人なのです。
一方、イエス様はピラトの問いにひと言もお答えになりません。それは、あえて自ら十字架にお架かりになるためでした。1ペテロ2章に「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」とある通りです。私たちこそ裁かれるべき罪人。その身代わりとして裁きを受け、命を捨ててくださったのです。愛とは自らあえて行うことなのです。
一部始終を見た百人隊長と見張りをしていた人たちは「この方はまことに神の子であった」と言います。罪のない人がこのような死に方をするなど、ただの一度もなかったからです。どうしてこんなことが許されるのか。それこそ、暗やみを生きる人のために神がなしてくださった愛のわざなのです。