姜尚中氏の講演を伺いました。1973年、金大中氏事件が起こり、彼は自由のない故国を憂いました。1987年、韓国は民主化されますが、それから26年、自由になった故国も日本も同じように闇は深い。息子さんの死と東日本大震災の衝撃から、立ち返るべきところは「愛」だと確信したとお話くださいました。
ごく単純なそれがわからなかったのはなぜでしょう。この箇所、十字架上のイエス様は「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです」と言われました。私たち人間は愚かなもので、自分のことがわからないのです。人は3つのことばがあれば生きていけます。「ありがとう。ごめんなさい。ゆるします」です。別のことばで言えば共感。相手の立場に立って気持ちをくみ取り、理解し、考えることです。しかし、私たちの罪はいつも自分本位です。
この十字架上でそれがわかったのがこの一緒に十字架に架けられた犯罪人の一人です。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と言うのです。タイ5章の山上の説教の冒頭、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われたそれは、自分自身の内にある罪を認めることです。
彼は同じように十字架に架けられているイエスに望みを託します。誰が死に行く人に期待するでしょうか。しかし、彼は「何も悪いことはしていない」、罪なきお方が十字架につけられる。このお方は神の子なのだということを理解しました。すべてがわかったわけではない。しかし、それで十分でした。イエスは「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と救いのことばをかけます。そう、十字架こそ罪を贖う救いのしるしなのです。